現在の仕事についた経緯
25年間当たり前のように会社員生活を送ってきました。それが自身の想いとは裏腹な結果である日突然終わりを迎えた時、もはや再就職が困難な年齢に達していることに気づきました。まあそれでもこだわりがなければ再就職も出来たとは思いますが、同時に自身の残りのキャリアで自分が本当に何を成し遂げるべきなのか、立ち止まって考えるようになりました。
自分がライフワークとして海外での事業立ち上げをやってきたこと、そしてこれからの日本は少子高齢化の中で、もはや海外進出できたらいいなではなく、やらねばならぬ時代に突入していくこと、この2つのことが重なって、海外進出と新規事業開発に特化したプロフェッショナルファームGlobeNexusを立ち上げました。
実際に上場企業様の東南アジア進出をご支援する中で、自身の知見・経験だけではご支援の幅に限界がくることを実感し、海外進出のエキスパートをネットワーク化してスポットコンサルを提供するサービス「セカイズカン」の構想に行きつきました。
仕事へのこだわり
私は2000年にSONYという会社でソフトウェアエンジニアとしてキャリアをスタートしました。いわゆる団塊ジュニアの最後の年代です。当時の私は実力もないのに野心だけは高く、当時出版されていた「SONYを踏み台にした男たち」という本に出てくる方々の半生に憧れていました。それはSONYでキャリアを積んだのち、海外でMBAを取得、外資系コンサルファームから最終的には事業会社のトップマネジメントを目指すというルートです。エンジニアとして1社に就社するという考えは入社初日からなかったです。まあ今となってはよくある考え方とは思いますが、当時としては変わった部類だったと思います。
MBAも意識の高い20代のビジネスマンなら誰もが一度は考えるかもしれませんが、実際は多くの方が語学やGMATスコア、費用の面で断念をします。ただ私は一度やると決めたことを断念するのはやはり性に合わず、GMATスコアも4回目の受験で奇跡的なスコアを叩き出し、またこれも運よく奨学金も獲得してMBA行きの切符を手にすることになりました。絶対に成し遂げると決めたら運も味方についてくれるという原体験でした。
そこから先は全く思い通りではありませんでしたが、外資系コンサルを経て楽天のアジアRHQを立ち上げ、取締役に就任すると、その先は特に目標がなくなってしまいました(笑)。ただ一期一会の出会いに任せてキャリアを積んできた部分もありますが、自分がワクワクする仕事を自分の直感と意志で選んできたとも思っています。海外で新規事業を立ち上げるというのは勿論ワクワクする仕事ではありますが、失敗するリスクも高く、結果としてキャリアを転々とすることになりはしましたが、自分の意志で選んだ結果なので全く悔いはありません。
若者へのメッセージ
今、私は大学発ベンチャー等の若手経営者の方々のご支援もしています。その中で感じるのは経営能力に年齢は一切関係ないということです。視座を高く持てば自ずと事業もスケールしていくということを私も二回り年下の経営者の方々から教わっています。こういう若手経営者がいるなら日本もまだまだいけるとも感じています。
一方で巷では退職代行の話や生成AIがこれまで稼ぎ頭だったはずのキャリアを奪っていく脅威の話なども出てきています。更に加えて近年はロシアのウクライナ侵攻から始まった地政学的リスクの高まりも叫ばれています。このVUCAの時代を生き抜く上では、過去の実績や経験はほぼ役に立たないと思います。むしろ全く新しい環境においていかに早く学習していくか、その学習曲線の高さが問われてくると思っています。
先ほどの生成AIの話で言えば、見方を変えればこれまでエンジニアの独壇場だったプロダクト開発の世界を、文系がその自然言語の表現力で塗り替えていくことだって出来るということです。
物事には必ず2つ以上の見方があります。私の会社員の終焉は起業家としての始まりです。これからの人生100年時代、若者だけではなく不遇な団塊ジュニアの同世代の方々もまだまだ一緒に頑張っていきましょう!